天使のいた夏 


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−天使のいた夏−

 夏。地球温暖化が騒がれ、それが実感できるような暑さ。私は父方の祖父の家に遊びに来ていた。よくあるお盆の帰省だ。夏休み真っ只中だった私は、宿題の自由研究に風景画でも描いてやろうと、スケッチブック片手にここへ来た。
 祖父の家はとても田舎にある。蝉が五月蝿い山の合間は水田が一面に広がり、現代日本から抜け出したような世界だった。車もあってトラクターが限界だ。
 祖父の家に来てからもう三日が経つ。一週間の滞在予定なので、そろそろ宿題に手をつけなくてはならない。
 ひとまず、何を描こうかと考える。出来れば簡単に終わらせたいが……。
(……山からの風景でも書きますかねぇ)
 そう、私はその程度の気軽さでこの山へ入った。面倒ではあるが、一枚で済む。これは得策だ。
 祖父の家の裏山へ向かう。崩れかけた石段を登りながら、木陰を数十分。しかし、大して大きく見えなかったのに、なかなか頂上に着かない。思っていた以上にその山は大きかったらしい。
 現代っ子の私は、この程度ですぐへたる。半端な丈のジーンズに包まれた足を、石に座ってえいと投げ出した。木の陰なら風も涼しい。
(今日下書きをしたとして……明日も登るのかぁ。嫌だなぁ)
 不謹慎にも私は楽を最優先する。辺りを見回して、適当に植物のスケッチを始めた。私って悪い子だなぁ。コレでいいやとか考えてたりして。
 座っていた石から数メートルの範囲で、スケッチブックを埋めていく。都会にはない植物が多くて、思っていたより面白い。どんどん獣道を作りながら奥へと入っていった。
(……ん? 何ここ)
 下手をすれば、数時間歩いていたかもしれない。夢中になると人は疲れも忘れるようだ。もはや現在地の分からない私の前に、妙な空間が広がった。
 森が唐突に途切れ、角ばった長方形の石がいくつも、ある程度の規則性を持って並んでいる。
 ……さぁ、ここはなんと呼ばれる場所か?
 答えは「墓」もしくは「墓地」。お盆で一族の者が来たらしく、それらには花が供えられていた。まぁ、暑さで私のようにへたってはいたけれど。
 木の陰から出るのが嫌で、遠くからそれらを眺める。山の途中を切り崩して作られた空間からは、下の景色が良く見えた。
(何だ、頂上まで行かなくてもいいんじゃない)
 森から出ずに、墓地の端へ移動する。そのまま木に背を預けてスケッチを開始した。
 なかなか綺麗な景色だ。まだ青い稲に隠れて、田んぼに張られた水には澄んだ色が映っている。まるで空が降りてきたよう。もしくはここが空中に浮いている。そんな錯覚を受けた。
 午後の昼下がり。蝉は五月蝿いけど、とても時間がゆっくりとしていた。鉛筆で出来る下書きの限界までいくと、何となくこのまま白黒でもいいんじゃないかと思う。……無論、これもただ物臭なだけ。
 スケッチブックを投げ出して伸びをした。誰もいないと分かっているので、大きく隠しもせずにあくびをする。気分がいい。
(側にお墓があるなんて、振り返らなければ分かんないわね)
 思いながら何気なく振り返る。
「大きな口でしたね……。眠たいですか?」
 人がいた。
「う……うっそぉん。人いたの? いつからよ?」
「貴女が絵を描いている途中からです。鉛筆だけなのに綺麗だと思って。黙って後ろにいたんですけど……驚かせてすいません」
 まさかのハプニング発生だ。あっけに取られて冷や汗を流す私。困ったように頬を掻いて、そいつは柔らかな笑みを浮かべたまま謝る。
 黒とは呼べない、濃い栗色の髪と瞳。妙に白い病的な肌。それらはどうでもいいんだけど、コイツは服装が異常だった。
 歴史の成績は最悪だが、明治時代・大正・昭和? とかの書生とでもいうのだろうか。濃さは違うが、茶系で統一された和服を着ている。袴なんて、しかも山で普通に着てる人いる? コイツ怪しすぎるわよ。コスプレマニアか? ……でも、線が細くて意外と美人だ。意味はないけど悔しいな。
 その人は私のスケッチを興味津々といった風に眺めている。ついでに、私の事も不思議そうな目で見ている。もちろん、こっちも珍獣でも見るかのように観察してやった。
 少しの間、二人してお互いを不躾に見つめ合った。その後、数分して先に口を開いたのは向こうだった。肩に付く長さの髪をさらりと揺らして、彼は首を傾げた。そして、そこからは質問攻め。それは別に構わなかった。ただ、私がおかしかったのだろうか。その時の話の内容はことごとく変だったのだ。
 まず、「何をしていたか」。答えは簡単に一言、「スケッチ」。だが、彼は絵を描く行為をスケッチと呼ぶことを知らなかった。次に「そんな服装初めて見た」。私はただ涼しいキャミソールにジーンズを穿いているだけ。特別な格好はしていない。
 髪を赤茶に染めていること、私の話し方やカタカナ語、私が彼の使う難しい言葉を理解出来ないことを本気で不思議がる。こっちも不自然な人間に驚いた。
 つまり、分かり易くいうと、その人は妙に古い人間だったってことだ。外人でも相手にしているように、私と彼とではまるで知っていることが違う。でも……いや、だからこそ話していて面白かった。
「お墓でこんな変人に遭遇すると、お化けかもって疑っちゃうわね」
 私の冗談に彼は「そうですよ?」と笑顔で答えてくれる。真面目なのに冗談が通じる奴。穏やかで優しくて、そのくせ好奇心旺盛。
 どうやら彼は近くに住んでいるらしい、ということまで聞いて、その日は話し込んだだけで別れた。なんやかんやでスケッチブックは半分埋まった。何もなければこれで満足していたかもしれない。でも、ここに来たいと思う目的が出来てしまった。
 話している内に、どうも彼のことが気になるようになった。今時カタカナ語を知らないなんて、どこの山奥のじいちゃんだろう。ただの好奇心だけではなかったけど、彼と話していたかったし、何となくこの姿がまた見たかった。
「明日もいるの?」と聞けば、その人は「来れば分かりますよ」と微笑む。絵の続きを見るために、きっとひょっこり現れるつもりだろう。
 帰る途中、何度か振り返ってみたが、見えなくなるまで彼は見送ってくれた。すごく嬉しい。今日会って、少し話しただけなのにここまで仲良くなれるとは。フレンドリーな人だ。
 私は彼に見送られることにどこか安心して、明る過ぎる夕方の山を下りた。

 翌朝。午後からの予定だったスケッチを繰り上げて、私は裏山へと向かった。朝ご飯を食べて、さっさと支度して、慌ただしく出かける私に祖父は不思議顔だった。だけど「宿題の絵を描くから」と笑顔で質問をかわした。
 何となく、墓地で会ったアイツを知られたくなかった。理由なんてなかったけど、あの笑顔を見るのは、あの人を知っているのは自分だけでいいと勝手に思っていた気がする。うん、身勝手で訳の分からない理由だ。
 スケッチブックと水彩色鉛筆の缶をショルダーバックに詰め込んで、昨日は登るのが大変だった階段を上がっていく。早く会いたい。何故そう思うのか、これには理由なんて要らなかった。会いたいと思うそれだけで、簡単に疲れ知らずになれる。
 うーん。これは恋だろうか? 本気の一目惚れだとするなら、初体験かもしれない。
(……なんて馬鹿なことを考えたりしてね)
 さすがに、急な石段を一気に駆け上がることは出来なかった。苦笑いを浮かべながら、立ち止まる。膝に手を付いて、すでに高い太陽からの光を見上げた。
 日光が筋のようにこぼれ落ちてくる。雲がないから空は青い。夏の日差しは緑の葉に遮られているが、それでも暑い時は暑い。
 何気なく山の途中から下を見てみると、結構高いところまで来ていた。地面が遠い。そして、ここと下界との間に吹く風の中、鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。そう、珍しいことに白い鳶のような奴がいる。しばらく、綺麗なその姿に見惚れていた。
 どうやら、呆けている私の上にも鳥がいたようだ。黒い影が日光を遮り、妙に大きな羽音が響く。地面に映った影から空を仰ぐ。そして、眉をひそめた。
(……今の、鳥?)
 木の中にいるせいだろうか。影は鳥の翼を持っていたのに、体が鳥の形に見えなかった。音も小鳥やカラス程度のものではなくて、もっと大きな翼を持った……
「涼しそうに飛んでいますね。空までは連れて行ってあげられませんけど……」
「うわっ!? 冷たっ!」
「っ!! 痛いっ」
 唐突に頬が冷たくなる。というか、ひんやりした物がほっぺに触れた。
 驚いて振り向くと、そこには例の彼がいた。可哀想に。私の背中まである髪が見事顔に当たったようで、同じように頬を押さえてあちらはショックを受けている。
 その時、驚きのせいで鳥のことはどうでも良くなった。木の陰に重なって変な形に見えたのだろう。きっとでかい鳶だったんだ、アレは。もしくは怪鳥。
 それにしても、コイツの手は異常に冷たい。一瞬氷かと思ったくらいだ。恐らく、その冷たい手で頬を冷やそうとしてくれたのだろう。だが、何故彼がここにいるんだろうか。探しに来られるほど遅い時間ではない。まだ朝なのに。
「ごめんごめん。まさかそんなところにいるなんて思わないでしょ? 何やってんの?」
「何って……貴女を探しに」
 バツが悪いような私に、何当たり前のことをといった顔を向ける。髪が当たって、しかも気の利かない質問をされて、どうやら彼は拗ねてしまったようだ。石段に座り込むと口を尖らせる。子供かお前は。
 昨日と違って、今日の彼は麦わら帽子を頭に乗せていた。相変わらずの和服に白い肌。麦わらが似合わないったらない。
 私はというと、山を散策出来るよう、肌を出さないゆったりめのパンツとコイツを驚かせたいがために英語がびっしり書かれたTシャツを着ている。ついでにチューリップハットを被っている。
「……こっちの方が合ってるんじゃないの?」
 上の段にいるのに下に見える彼の頭。そこから麦わら帽子を奪い取り、代わりにチューリップハットを乗せる。
 きょとんとした顔で見上げられた。カンペキ。この方が明治風人間だ。時代錯誤もいいところ。
 クスクスと私は笑った。彼はこれも初めてなのだろう。私の笑いを気にも留めず、チューリップ型の帽子に嬉しそうだ。上を見上げて、緩くカーブしたツバをきらきら輝く瞳で見ている。
 彼はどんな顔をしても作り物に見えない。素直に表情が出るっていいな。学校では愛想笑いを顔に貼り付けて、冗談めかしてしかホンネが言えない。この人が何者か良く分からないけど、嘘を吐かずに話せる人なんて久し振りだ。
 奪った帽子を代わりに被って、彼に手を差し出す。手を借りて立ち上がるのが嬉しいのか、この明治人は目を線にしてひょこりと立つ。
(あぁ……奈落。この人可愛いわ。完全に惚れたっ)
 私が自分のダメ人間さとこの人の可愛さに浸っていると、当の本人はすたすたと階段を上がっていってしまった。付いてきていないのに気が付いたのか、かなり上まで行って私を待っている。
 細く零れる緑と白の陽射し、薄い影の中に立つその人は、どこか現実離れして見えた。翼のない天使。そんな者がいるのなら、きっとそれは彼のような人なのだろう。もしくは、本当にお化けの類かも知れない。
 さて、二人で歩き始めてから墓まではまた質問攻めだった。狙い通り、彼は英語に興味津々だ。教えてあげられるほど英語の成績は良くないけど、Tシャツに印刷された単語くらいなら意味も分かる。
 彼の頭の作りは恐ろしくいいようで、教えた単語は全て一回で覚えた。さらに、Tシャツに書かれていることは日本語としておかしいと文句まで言うようになった。コイツは語学レベルと記憶力が並じゃない。こういう奴を世間一般は天才って呼ぶんだ。いや、秀才だろうか。
 そういえば、私達はお互い名乗っていない。何て呼べばいいか、今更ながら分からなくて困った。
 森の向こうに墓へ続く階段の終わりが見えた時、すぐ横にいる彼に首を傾げた。赤茶の髪が広がる。穏やかな彼の瞳に見つめられるのが無償に嬉しかった。
「あんた、名前は何ていうの? 私は……」
「適当に呼んで下さい。僕は名乗れる名前なんて持っていませんから」
 ああう、名乗るチャンスを失うわ、愛しの彼の名前を聞きそびれるわ。
 嫌味のない素直な瞳でやんわり断られると、雰囲気的にこれ以上は聞けなかった。話したくない何かがあるなら突っ込んだりしないけど、せめて私の名前は知っていて欲しかった。しかも、名無しってどういうことよ?
 彼は笑顔で落ち込む私に気が付かない。無神経なのではなく、鈍くて疎いのだと思う。時代が狂ったコイツなら十分ありえる。きっと今の私のバックには、黒っぽい線が縦に沢山引かれているんだ。効果音はドンヨリだ。
 墓までの階段を登りきり、昨日と同じ木陰まで行く。内心が軽く小雨な私は、スケッチブックと鉛筆の缶、小さな水入りの瓶を出して座り込んだ。彼は同じ木の下に入って、私の横に腰を下ろす。そして、人の気も知らないでのんびりと澄んだ空を見上げている。
 この人は何者なのだろう。何で赤の他人について知ろうとしないの? 怪しさは全開なのに、悪意も裏も何もない。ただ、何がしたいのかも分からない。
 もやもやとしながら、白黒の風景に色を落としていく。滲みながら、鮮やかな緑が世界に息を吹き込む。彼は横で何をするでもなく、下界と紙の世界を見比べていた。
 こちらから話し掛けなければ、私の邪魔をしないようにと、彼はきっと黙ったままいるつもりだろう。知りたいことだらけなのに、さっきのアレでは多分話してくれない。聞きたくても聞けない。
 手を止めて、少し高い位置にある肩に、何となく頭を預けてみた。理由があっていじけた私からの精一杯の罰だ。鈍感な明治人よ、これくらいのセクハラは許せ。
 急に寄りかかったのに、彼は驚いたりはしなかった。嫌がるどころか、コイツの纏う雰囲気は今までより柔らかくなる。彼が軽く首を傾げた。赤茶の髪に濃い栗色の髪がかかる。頭の乗った重さはほとんど感じられない。
「今日は甘えん坊さんですね」
 からかうような優しい声。私には兄がいる。でもこんな風に優しくされたことはない。今まで何人かと付き合ったけど、やっぱりこんな人はいなかった。
「あんたが優しいから、甘えたくなるの。嫌?」
 あんたがイジワルだから拗ねたとは言わない。これは要らないプライド。
「いいえ。貴女がいるから優しくなるんです。甘えて下さい」
 鈍いのか確信犯か……嫌な奴。
「……あんたのことね、話してくれなくてもいい。でも、何か話そうよ? 会話がないとつまらないし」
 これは嘘。本当は私の事を知って欲しいだけ。そのままあなたのことを聞き出したいだけ。
「いいですよ? 絵を描くのに差し支えなければ。僕も話すこと自体は好きですから」
 ころころと、男の人がこんな笑い方をすると思わなかった。鈴を振ったような、瓶で水晶玉を転がすような、涼しくて優しい笑い声。
 寄りかかるのを止めて、思わず彼を見上げた。栗色の瞳は不思議そうに無言でどうかした? と聞いてくる。無邪気な目は、嘘も言わない言葉も見透かしているようで、どうぞお好きなようにとでも言われているようで。
 何故か耐えられなかった。目を逸らした先、下に見える景色に、まだ白い鳥が舞っている。静かな空気にも耐えられなくなる。
 なんでもないとだけ答え、私はいつもより口数多く喋りだした。学校のこととか、家族のこととか、世間のつまらない事件、どうでもいい日常。手当たり次第に話してゆく。
 この人は本当に外界と離れた暮らしをしているんだ。話の全てに興味を持ってくれた。おかげで私は早々とペースを取り戻し、鉛筆片手に冗談まで言ってやれた。まぁ、この明治人間にはことごとく冗談が通用しなかったんだけど。それでも、壊れそうな苦しさからは逃れられた。
 その日だけで水彩の風景画は完成してしまった。それなりに満足のいく出来で、彼はこの絵に大喜びだった。どうやら絵を描いたり、物を作ったりという経験がないらしい。文芸ならそれなりに心得ている、だなんて言い訳をしていたが、あのはしゃぎっぷりと必死の照れ隠しはコイツをからかうネタにしかならない。
 そう、何だかんだで優位に立った私は、彼がこの山に詳しいということを聞き出した。いじめから逃げるために、転々とある墓石の裏に彼は隠れた。だが、広くないおかげでそれを探すのに時間なんて掛からない。
 仕事道具を片付けて、からかいにいじけた彼を急かす。膝を抱えて、チューリップハットの下で口を尖らせて。やっぱりコイツはお子様だ。さっきの物静かな男は今どこに?
 山の中を一人で歩くと確実に迷子になる。でも、コイツがいればちゃんと家まで帰れる気がする。せっかくなので、頂上まで連れて行ってもらい、ついでに山案内を頼むつもりだ。途中でまた、色々と聞き出してやる。色々とね。
 まだ会って二日目。帰るまでもう三日しかない。しかも、最後の日は会いになんて来られない。精一杯この人の側にいたかった。多分これは本気だから。
 夏の明るい夕方がきた。その日の帰る間際に、後二日しか来られないと彼に教えてやった。嬉しいことに、コイツは本当に寂しそうな顔をしてくれる。あれだけ私のことを話して聞かせたのに、近くに住んでいるとでも思っていたらしい。大したお馬鹿さんね。
 こっちが慌てるほど別れる時に落ち込んでくれる。だから、一人で置いていって大丈夫か、少し不安になってしまった。この細い美人が弱々しく歩いていたりしたら、夜道で何かに襲われそうで……いや、明治コスプレを手に掛ける物好きはいないか。って馬鹿。そうじゃない。
 彼は光の中にいると触れられない雰囲気があるのに、こうして夜が近付くと妙に頼りなくなる。明日になったら消えてなくなっていそうで、正直、今は目を離すのも怖い。
「明日も明後日も来るから、大丈夫だって」
 しゅんとしている彼の、死人じみた白い手を握る。相変わらず冷たい。今の儚げな雰囲気と重なって、この人が本当にここにいるのか分からなくなりそうだった。お盆に帰ってきている幽霊なら夜こそ元気なはず。翼のない天使のようだと思ったけど、天使がこんな格好をするとは思えない。
 大丈夫だと自分にも言い聞かせていた。この人は変だけど、悪い人じゃないしちゃんとここにいる。触れているのに疑うことなんて一つもない。明日もきっと、あの穏やかな瞳が迎えてくれる。私にからかわれて、またいじけるんだ。
 彼は私の手を自分の頬に当てると、静かに目を閉じた。手だけじゃなかった。この人は全てに温度がない。あんまり冷たくて、訳もなく悲しくなった。ひんやりとした頬を両手で包み込む。すると、唐突に彼は私の手を放した。そのまま、細い腕に抱かれる。
 驚いて下から見上げた彼は、強く目を瞑って、放すことを怖がっているように見えた。
「……私が甘えん坊なら、あんたは寂しがり屋ね」
 抱き付かれても嫌だとは思わなかった。むしろ、こんなに寂しがってくれるこの人が愛しい。赤茶の髪に顔を埋めて、彼は小さく首を振る。その弱い否定は寂しいと認めたようなものなのに、コイツは気付いてなんかいない。
 冷たい頬から手を放し、首を抱く。柔らかな栗色の髪を撫でると、彼は消えそうな声でごめんなさいと呟いた。でも、この可愛い人に謝られる筋合いなんてない。
 私は宥めるように、耳元で囁いてやった。本当は愛してるとか言えたらよかったんだけど、そこまで度胸はないし、第一私には乙女の恥じらいというものがある。これは男に言わせたいセリフトップ3の一つだ。いつかコイツに言わせてやる。
「明日はもっと話も出来るよ。それに、来年だってあるでしょ? 私は毎年ここに来るんだし」
「過ぎた一年は早いけれど、待つ一年はとても長いんです」
 抱き付いていた彼は、残念ながらあっさりと私を解放してくれた。肩に手を置いて俯いたまま、しょげたように呟く。やっぱり一人で帰れないんじゃないだろうか。心配だ。
 赤くなった光の中で、彼は一歩離れて早く帰りなさいと嫌々その言葉を口にする。年長者のプライドとか義務から言ったのだろうが、「今日はもう帰さないっ」くらい聞きたかった。まぁ、この鈍感な明治人間にそこまで期待できないことは分かっていたし、言われてもどうせ帰るんだケド。私そういうの好きだから……。
 結局、寂しそうな彼に後ろ髪を引かれながら山を下りた。明日も明後日も、特に明後日は泣きそうな顔をされるのではないかと今から不安だ。
 石段を駆け下りながら、何度か彼を振り返る。大きな石の横で後ろに手を組んだ姿が立っていた。沈んだその人に大きく手を振ってみる。彼は諦めたような笑顔で手を振り返してくれた。その瞬間に決心する。
(私、遠距離恋愛始めます!)
 彼の落ち込みに反して、意気揚々と段を下りていく。途中、薄暗くなった山に大きな鳥の羽ばたきが聞こえた。昼間と似ている。反射的に空を仰ぐが、そこに鳥の姿はなかった。反対に行ったのだろうか。もう一度彼のいる方を振り返る。
 昨日はずっとそこにいたのに、この時、彼はもうそこにはいなかった。

 二日なんてあっという間だ。昨日はコイツに絵の描き方なんか教えながら、またくだらない話を延々としていた。でも、相手が無知な明治人なら全てが新発見だった。考え方が違うせいもあって、今までと世間を見る目が変わった気がする。
 今日はデカイすいかを持参して、墓にあるお堂で食べた。丸々一つ持ってきたから、彼は二人では食べきれないと思ったらしい。しかし、喉がからからの女を舐めてもらっては困る。ちょこっとおしゃれした私は、外見に反したお腹ですいかを四分の三も平らげてやった。無論、彼の驚愕はからかいの種だ。
 そんなこんなで、父の実家に帰ってきたのに祖父母とは朝夜しか話をしていない。陽がある間はこうやって山で遊んでいる。今日は帽子を被っていないけど、見た目はやっぱり明治の書生な彼。新鮮な遊び相手がいれば、下手に都会で夜遊びするより面白かった。
 明治人は相変わらず自分のことをほとんど話してくれない。だけど、何となくコイツのことが分かってきた。
 すごく、この明治人間は遠いところにいる。ずっと一人でいて、誰かに側にいて欲しくて。でも、本人はそれを言わないし、誰かを欲しているのに近付けようとしない。
 おかしな話だけど、会ってすぐにお化けじゃないかと疑って、コイツが否定しなかった。あれは冗談なんかじゃなかったのではと思う。お化けじゃなくても、私と違う何かなんだろうな、そう感じることが多くあった。
 別れ際の夕方はやっぱり怖かったし、今、いつもより少し遅くまでいることが、何か悪いことに繋がりそうで嫌だった。でも、明日がないせいで何となく今日を引き摺っている。
 お堂の階段で静かになった私を、彼は心配そうに横から覗き込んでくる。今日は彼より私の方が聞き分けのない子供だった。いや、違うか。いつだって彼の方が最後は大人だった。ちゃんと笑って見送ってくれていたし。
 木の陰が長い。空も今までで一番赤くて、きっと冬なら真っ暗な時間になっている。家では遅いという言葉が出始めているのかもしれない。それでも、彼の口からはまだ帰れとは言われていない。それに甘えていた。
「もう随分遅くなりましたね」
 横に座って、明治人は暗くなっていく森を不安そうに見ていた。この人も早く帰さないといけない、そう分かっていながら私の言葉を待っている。帰れなんて、突き放したくないのかな。だとしたら嬉しい。甘えてばっかりじゃいけない、かもね。
「黄昏時ってやつ?」
「ええ。暗くて誰が誰だか判らなくなる、昼と夜が交代する時間ですね。……僕が貴女を手放さなくてはならない時間、でもあります。嫌ですね」
「……ホントだよ」
 答え方がいつもより力なくてごめんね。おどけたように、でもはっきり手放したくないと言ってくれる。これは、こんな感じのセリフは、明治人の言葉として初めてだ。やっぱり遠距離でもコイツを手に入れなくては。
 膝を抱えて顔を伏せた私の頭を、赤茶の長い髪を優しく、壊れ物にでも触れるように梳いてくれる。私は大切に扱われているんだね。あなたの中で、私はどんな存在なんだろうね。
 いつかみたいに寄りかかると、あの時と違ってコイツは私を抱え上げてきた。この細腕のどこにこんな力があったのだろう。膝の上にひょいと乗せて、そのまま横抱きに固まる私に彼は微笑む。夕焼けに赤みが増した栗色。すごく綺麗だった。でも、壊れそうな儚さがこの人に戻ってきている。
 怖い。消えないように、捕まえておきたかった。縋るように首に腕を絡めれば、彼は簡単にそれを受け入れ抱き締めてくれる。薄茶の羽織に包まれて、時間なんて止まってしまえと思う。
「……陽が沈む前に山を下りないと、危ないですよ」
「下まで送ってくれればいいじゃない」
 赤い髪に頬を摺り寄せながら、彼は私の我が儘に黙る。下まで行けない理由があるのは分かっていた。ここで何かに縛られているから彼は外を知らない。下まで行けるのならこの数日の内に何故下まで来ない。
 最後に知りたかった。この人は何を抱えているのか。聞けば来年会えない気もするけど、私はこの人を放す気なんて欠片もない。すっきりしないまま、一年は過ごせそうにない。
「……ずるいですよ。もう分かっているのでしょう? 僕が、普通の人ではないと分かっていながら、それを言わせるんですか?」
 怒ってはいない。むしろ泣きそうな、何で聞くの? という子供のような涙声。知られるのが怖いことなのか。多分、私は何を聞いても驚くだけで、この人が愛しいという想いが変わることはないと思う。でも、それは彼には見ることが出来ない。この人は私にどう思われるかを怖がっている。
 ごめんねと耳元で囁くと、彼は何かを諦めたように肩の力を抜いた。さぁ、あなたは一体何者なの?
「僕は、この世の人間ではなくなっています。……手が冷たかったでしょう? もう、生きていないからです。百年くらい前に病気で僕は死にました。すぐそこの墓を離れられない。この山からも出られません」
 吹っ切れた、自嘲するような言い方。
 死んでいると言われても、腕の中には彼がいる。少し、首を抱く腕に力を籠めた。そして、そっかと、気にしないよと呟く。実際に勘付いていたことだから、あれが冗談じゃなかったと分かったから、返って安心した。……そこで一言、はっきり言ってやる。
「うん、でも好き」
 自然に口から出た。彼は驚いたように私の顔を見ようとしたけど、首を放してやらなかったから見事に失敗した。そして、嬉しそうに懐く私に気が付いて少し呆れている。やっと話してくれた。本当に明治人は現代っ子を舐めすぎね。愛しの彼が宇宙人だって、きっと構いやしないわよ。
 嫌われると予想していたのだろう。私のこの反応に、期待が外れたとでも言うように彼がむくれる。しかも、心配して損したなんて言い出す。だが、最後には嫌われなくて良かったと無邪気な笑顔を見せてくれた。今、すごく幸せよ。
 こうなったら聞きたいことは今のうちに聞くしかない。真っ赤な太陽が山に足を付いた。でも気にしない。
「ねぇ、お化けなら何で昼間に出てこられるの? 夕方になると頼りないし」
「あぁ。嫌われそうな理由が、実は二段階あるんです。貴女は耐えられますか? きっと嫌いになりますよ? 来年は来たくなくなりますよ?」
「さっさと言え。馬鹿」
 首から離れて、心配性の頬を横にみょ〜んと伸ばす。痛がって、瞳の端に涙を浮かべながら手をじたばたさせている。だけど、いじめっ子には美味しすぎる反応だった。お化けに触っているという感じがまるでない。ただ、昨日までと同じように彼とじゃれ合っているだけだ。
 手が放れた薄赤い頬を擦り、彼は膝の上で答えを待つ私を見る。無言の涙目で非難された。実年齢より幼いだろう可愛い顔。いつかも思ったけど、妙に表情の年齢差が激しい男だ。きっと死んでからの百年が大きかったんだな。
 無言の非難は、高飛車に構えた私に堪え切れず音になる。
「うぅ。イジワル」
「あんたがお化けでも宇宙人でも地底人でも、悪魔だろうが天使だろうが関係ないのよ。この人格が好きなんだから、正体が何だって驚くだけで、嫌いになる理由にはならない。損する心配なんて無用だわ」
 これを本心で言える奴がいたら、私は神経を疑う。ドラマなんかでやっていたらお笑いだもの。でも、自分がこいつの立場だったら一番欲しい言葉だし、今の私の立場なら言えて当たり前のこと。
 腕を組んで偉そうに宣言する。極度の心配性な明治人は、顔を覗き込んで本当に? と首を傾げる。そして、鼻をつままれやっと私を信じた。不安そうに俯いて、彼は口を開く。こいつはここでどれくらい騙されたんだ? まさか生前からのトラウマ?
「僕は確かに幽霊なんですけど……」
「ああ、天使様でもあるのだよ。霊魂から成り上がった、とっても珍しい、ね」
「……ちょ、待てっ! ちょっと今の誰っ!?」
 小さな呟きの後を、知らない声が引き継いだ。彼の膝から降りて墓地に目を走らせる。太陽は山の向こうに落ちた。暗くなるのが異様に早い。嫌な気分。
 後ろで、彼が時間切れと寂しそうに漏らした。何のことかなんて分からない。でも、彼が夜に強いただのお化けではないことは分かる。私はこの時間まで彼を引き止めてはいけなかった。早くここから去らなくてはいけなかったのは、私ではなくてきっと彼。
「名乗るような者ではないよ。第一、名乗ったところで次に会うことはないからね。今は特別な状況ゆえにこうして会話が成り立ってしまっている。しかし、通常私は君の目には映らない」
 お堂の正面、森の影から人が現れる。時代錯誤も甚だしい、でもこの明治人を見た後なら驚かない。黒い魔女が被るような尖った帽子、夏なのに黒いロングコート。極め付けはくすんだ菫色の瞳。同じ色の長髪は一つに括られ、狐の尻尾みたいになっている。
 中世的な顔立ちとそのままの声だった。しかし、これが「彼」に分類されるのは勘で分かる。訳の分からない日本語を並べたそいつは、睨み付ける私から彼へと目を移す。そして、「御機嫌よう」と気取って腰を折った。第一印象が最悪の変人だ。
 お堂の階段から彼は立ち上がった。挨拶は返さない。濃い栗色の瞳は不満げな私を穏やかに見つめている。それを細く糸のように細めて、彼はちょいちょいと手招きをした。
 まるで黒ずくめの変人がいないかのような振る舞いに、私は正直戸惑う。変人の方を気にしながら彼の側に戻ると、よく出来ましたと頭を撫でられた。
「……アイツ何?」
「さぁ、何でしょうね。……それより、お願いがあるのを聞いて下さいな」
 彼の唐突なセリフに首を傾げてしまう。見上げていた彼の顔が急に揺れた。本当は私がまた抱え上げられたせい。今度は何? と眉を顰めるけど、彼は微笑を浮かべたまま私をお堂の中へと運んでいく。答えてはくれない。彼の背中越しに、黒ずくめが溜め息を吐いているのが見えた。
 陽がないせいで、昼間より格段に中は暗い。お堂の床の真ん中辺りに下ろされて、そのまま座らせられた。彼は「ちょっとここで大人しくしていて下さいね」と笑顔だけで私に言う。不思議なことに、ここ数日、夕方になると感じていたあの頼りなさが欠片もなかった。
 呆ける私を置いて、彼はお堂から出て行ってしまう。背中が遠ざかるのが嫌だった。急いで立ち上がって追いかける。大人しく待つなんて出来ない。しかし、彼は後ろ手に木戸を閉め、私をここに閉じ込めた。
「ちょっとっ、何で閉めるのよっ? アイツ何なのっ? 見えるとか見えないとか、天使が何だとか言ってたけどっ、コラッ! 聞いてるのっ?」
 騒いでも、聞こえているはずの彼は答えない。木戸は押しても引いても、蹴っても開かなかった。それほど硬い木ではないのに、丈夫な戸ではないのに、ピタリと閉まったまま私を外に出してくれない。
 仕方がなく諦めて、細い木の隙間から外の様子を窺うことにした。黒ずくめは彼が戻ってきたことに満足そうな笑みを浮かべている。はっきり言ってウザイ。何様だ。彼の方は背中しか見えないけど、普段の優しさがないような気がした。黒ずくめに明らかな敵意を向けている。
 会話はほとんど聞こえなかった。どうしてだろう。私だけが世界から仲間外れにされているようで、無性に腹が立つ。それなのに、少しすると自分の意思とは別のものが私を支配し始めた。体の自由が利かない。声が出ない。目を開けていられない。意識まで遠退いていく……?
(何が、どうなってるの?)
 あの人の後ろ姿が揺らいだ。世界が暗くなる。少し、体が痛かった。

「おやおや、いいのかね? 随分と君を呼んでいたようだが?」
「構いません。あの中にいれば、貴方のその穢れた手は届かないでしょう」
「酷い言いようだ。天使の分際でよく歯向かう」
「天使の分際で? ……魔族如きが偉そうに」
「まったく、口が減らないようだ。あの程度の結界で彼女が護れるとでも思っているのかね? 夜、魔の領域で天使の力がどれほど微弱になっているか、君は知らないようだ。この時間まで地に足を付いていたことを後悔するよ」
「一人、群れから離れた獲物はさぞ狙いやすいでしょうね。ですが、僕だって馬鹿ではありません。無防備に待っていただけと思うならお生憎様です。あのお堂の結界、貴方の力程度が及ぶ物ではありませんよ」
「彼女は自ら出てくるだろう。君が消えれば結界も消える。彼女は君を探すためにわざわざ……」
「無理ですよ。あれは僕の存在とは無関係に、夜の間保たれる神の結界。この国の神様が子供達を護るためにいらっしゃる、守護のお堂です。僕はそこに少し手を加えただけです。朝まで彼女は出てこられません。日が昇れば貴方は無力になる。天使を消すことが目的なら、さっさと僕を消して帰るのですね。人間の娘など必要ないでしょう?」
「……そんなに大切かね。君が消えれば明日から彼女に守護は付かないはず。確かに、今回私に下された命は霊魂上がりの天使を消滅させること。だが、人間を殺すなとは言われていない。私が魔族の中で何に分類されるか、分かるかね?」
「ええ、分かりますよ。本来なら僕はここで消える訳にはいかない。貴方は守護をなくしたあの娘に要らないことを吹き込んで、心をぼろぼろに壊してしまうのでしょう? そして、無抵抗な、貴方好みの魂と一緒に、清らかな血を吸うつもり……。ねぇ、吸血鬼さん? 何故日本にこんな化け物がいるのやら」
「分かっていて……? 霊魂からの天使は昼に強大な力を誇る。夜しか我らの力は及ばない。夜を避け続けた君が、小娘一人のために逃げもせず消されるのか。天使の考えは欠片も理解出来ないな」
「僕はあの娘の側にはいられないのです。動かない時計を抱えたまま、未来あるあの娘を縛る訳にはいかない。……貴方は、僕が消し去ります。あの娘の記憶に僕のことは残しません」
「……なるほど」
(天使は奇麗事が好きな生き物だな。そうまでして護られて、記憶が消されたとしても、失ったという感覚は覆い隠すことができない。護りたい者が生きていれば満足。それは、残された者の心情を考えない身勝手な振舞いだ。押し付けがましい偽善。彼女も喜びはしないだろう。……魔族の優しさを持って、二人とも楽にしてあげようではないか)

「「さようなら」」
 重なる遠い声。私の「待って」は届かない。

「ん……? ……。げっ!? 寝てたっ? 私寝てたっ? はっ!? アイツはどうしたのよっ? 置いてきぼりなんていい度胸してるじゃないっ!」
 意識回復。寝ていたとしか思えないこの気だるさ。重要な時に最強の睡魔に襲われるなんてどうかしてる。
 勢いに任せて、薄暗いお堂の木戸を蹴破る。昨日はびくともしなかったくせに、「バキッ」とかありきたりな音を立てて戸は吹っ飛んだ。
 急いで外に出る。明るい。夏の太陽が痛いくらいで、点々と並ぶ墓石の間には陽炎が見えた。
 辺りを見回すが、あの時代が狂った男はどこにも見当たらない。どっかに倒れていても困るけど、姿がないのもそれはそれで心配だ。階段を下りてそばの森に入る。帰ろうとは思わなかった。何より、まず彼に会いたかった。
 光が筋のように落ちてくる中、アイツを探しながら走った。迷子になったって構わない。彼さえ見付かればどこへでも連れて行ってもらえるもの。
 途中で嫌なものを見た。黒っぽいもので、目の端に映っただけだけど近寄りたくない気配があった。もちろん、寄りたくないものには近寄らない。思いっきり進行方向を右に変えて、私の自己記録を更新できる速さでそこから立ち去る。何か声みたいなのが聞こえたけど、記憶から抹消しておいた。
「コラーっ明治コスプレの馬鹿ぁー!!」
 数分走って、少し大きめの石を発見した。そこに登って上から叫ぶ。奴にコスプレという自覚があるか、いや、単語が分かるかとか実は本当に明治の人かもしれないとかは置いておいて。呼んで出てくるなら探す必要なんかないけど、一番手っ取り早いので呼んでみる。
 木の間を縫って声が響く。こんな大声久し振りに出した。聞こえているだろうか。
「あぁ〜もぅっ。昨日の黒ずくめが何かしてたとしたら……瞬殺ものだわっ」
「……瞬殺なんて、怖い言葉を知っていますねぇ」
「でったなコイツっ! ……げっ。あんた誰よ」
 背後に現れたのは、昨日の変人とは別の黒ずくめだった。柔らかな黒の髪と穏やかな同色の瞳。優しげで細い、どこか彼に似た感じがある男だ。でも大学生か、弱そうなサラリーみたい。黒のスラックスとネクタイに白のYシャツを着ている。場違いな奴が多い山だわね。
 私の呟きに呆れたような苦笑を浮かべて、そいつは石の下から私を見上げた。そして、さっきは無視されてショックでしたとか言い出す。アレか、お前は。せっかく避けたのに。
 黒ずくめは警戒する私を気にも留めず、言いたいことがあると勝手に話し始めた。内容は、何でこいつが知っているのか分からなかったけど、あの彼についてだった。他人から聞くのは癪だけど、知りたくてつい黙ってしまう。
 まず、もう知っている「彼が幽霊だ」ということを話された。彼は生まれ付いて体が弱く、ありきたりな話だが流行り病なんかで死んだらしい。この辺りの家の次男生まれで、一族の変わり者だった。そのせいか、家の墓には入っておらず、この山で独りきり。
 この世に未練があった訳ではなく、彼は生前、唯一可愛がっていた妹を死んだ後も見守りたかったらしい。彼の妹は、一族から切り離された兄の墓を見放したりはせず、地元の家に嫁ぎ、彼の側に居続けた。彼も大切な妹とその新しい家族達を護っていた。
 しかし、妹が死んだ後、彼を知るものはいないに等しくなった。彼女の一族の中では彼の存在が霞む。忘れられていく彼は、本当の独りぼっちになった。それでも、優し過ぎる守護霊は妹亡きその一族をここで護り続けた。これもありきたりないい話だ。
 次に、彼が天使になったという話。これは神様の側にいる大天使っていうものが彼の健気さをえらく気に入って、この地域を護る守護天使にならないかと声を掛けた結果らしい。
 ただのお化けが大の付く天使を相手に嫌だとは言えず、半強制的に格上げをされたと黒ずくめは言う。本来はこんな簡単に天使にはなれないが、何か血筋的なものもあったらしい。いやいやいや……そんな馬鹿なと思う。神様なんてホントにいるの? 天使でしたとか言われても、明治人は明治人で羽はなかったし。
 話はさらにぶっ飛んで、黒ずくめは天使と悪魔の話を始めた。例え話しに近い言い方で、かなり簡単に。悪魔は天使を食べるらしい。
 夜が活動時間の悪魔にとって、あの夕方、まだ地上にいた天使はいい獲物だったそうだ。しかも、あの時の変人は外国の話にある吸血鬼で、私も美味しく頂かれる予定だったとか。それをあの明治人は守ろうとして、私をお堂に閉じ込めたり、夜で負けが見えたようなところに真正面から向かっていったりしたんだって。コラコラコラ、その頭どうかしていませんか?
 まぁ、それは置いておいても……。
「結局、アイツはどこにいるの?」
 ただでさえ宗教を信じない私。半分以上を本気にせず、黒ずくめに詰め寄る。黒ずくめは頭痛でもするのか、額を押さえて俯いた。
「私、今悪魔は天使を食べるって言いましたよね? 夜だと悪魔の方が断然有利とも言いましたよね?」
「じゃあ、アイツは吸血鬼さんにやられちゃったとでも言う訳?」
 確かに、彼は自分で自分を幽霊だと言った。そこは信じてもいい。でも、天使だの悪魔だのは信じられない。しかも、やられたってことはもういないってことじゃない。信じられないというより、信じたくなかった。機嫌悪く睨み付ける私に、黒ずくめは斜め下へ視線を落とす。
 睨まれるのに耐えられないのではない。悪い話を聞き分けのない娘に語る父親のようだ。困っているのが分かる。
「ええ。そういうことです」
 黒ずくめは否定してくれない。彼がいない事実だけが、妙にはっきり理解できてしまう。嫌だこんなの。
「あなたを吸血鬼さんから護るため、違う時間を生きるあなたを縛らないため。あなたを山に一人置いてゆけば逃げられたのに、そこを彼は逃げませんでした。本当は辛い想いを残さないように、自分との記憶も消すつもりだったようですが、叶わなかったようですね」
「え、何、本当にもう、いないの?」
 睨んでいるのに、黒ずくめが歪んでいく。声が揺れてる。体の横で握った手が痛かった。爪が掌に食い込んで、跡ができる。もう、立っていられそうにない。
「怒らないであげて下さいね。彼はあなたを一人にしたかった訳ではありません。どうしてもあなたを……」
「止めてよ、こんな風に護られて嬉しい訳ないでしょっ!? せっかくアイツは自分のこと話し始めてくれたのにっ? やっと好きだって言ってやれたのにっ? 何で馬鹿なことにばっかり気を遣うのよっ」
 膝を着いて、ここにいない彼に文句を並べ立てる。だけど、すぐ言葉にならなくなって、最後はただの泣き声しか出なかった。
 たかが数日で、どうしてこんな本気になれたんだろう。記憶を消してくれなくて良かった。辛くても悲しくても、忘れてしまうよりずっといい。感謝するわ。
 泣きじゃくる私の後ろに立って、黒ずくめがもう一つ、これが最後だと教えてくれた。あの明治人と私には、今回会ったという以外に大きな関係があった。
 私の家の人に聞くと分かるそうだが、彼は私の父方の祖母の母、亡くなったひいおばあちゃんのお兄さんに当たるらしい。そう、彼が可愛がっていた妹は私のひいおばあちゃん。こんなことってあるの? 私は大切な妹と重ねられていたって? だから私もあんなに……。
「あんた、何者? 何で知ってるの? 嘘言ってる?」
「嘘ではありませんよ。何者であっても、私が話したことは事実。不思議なことに遭遇したと思って、忘れてもらっても構いません。彼の望みでしたから」
 膝の上で握った手。それを睨みながら、まだ涙を止められない。ゆっくりと顔を上げ振り返る。
 そこに黒ずくめはいなかった。皆私を置いて、どこかに音もなく消えていく。何事もなかったかのように、幻でも見たかのように、夢が覚めていく。
『お堂の前、左から三つ目の墓石を見てみるといいですよ』
 後ろからの言葉。初めてなら空耳だと思うだろうけど、不思議が重なればこれくらい信じられる。
 ゆっくり立ち上がって、枯れ葉を払う。手の甲で雫を拭って、歩き出す。お墓があるなら、それに文句を言おう。それでまた泣く。
 天使でも幽霊でもいい。儚い彼は霧のように消えてしまった。その後を追うように赤茶の髪を翻して、緑と白の光の中、薄い影に紛れる。彼がいないことが夢なら、あの話の全てが嘘だったら……。
 途中、目の端にあの人の影を探して、何度も目を彷徨わせた。人は思っていた以上に弱いのね。探し物の幻を必死になって作ろうとするのだから。
 森から出て、刺すような光の中に今回は躊躇いなく入る。ある程度の規則性を持った石。その間を縫って、助言通りの墓へ。
 濃い灰色の、誰も来ていないと分かるような墓だった。女の人は嫁ぐと姓が変わることが多い。そのせいだろう。刻まれた名前は私のそれとは違う。古くて少し欠けていて、読みづらい。
「永良……恭。いい名前じゃないの」
 享年二十五とか書いてある。まだ若かったのね。見た通りの姿で終わってしまったの。
 結局、あの人は私をどう見ていたの? 妹とその曾孫娘は似ていましたか? 数日の戯れは楽しかったですか? それを護って満足しましたか?
 あなたが消えた後、全てを知らされて、私が壊れそうになっていたとしてもあなたは……。
 墓石の上を軽く撫でる。ざらついていて熱かった。でも、私は手を乗せたまま黙って石を見下ろす。珍しいことに蝉が鳴いていない。そのせいか、妙に静かで心まで鏡のように感じる。
 砕けた鏡には一つ欠片が足りない。パズルのように合わせて、平らな元のそれに戻そうとしているのに、鋭角の穴が一つだけ塞がらない。ぽっかりと開いた穴を埋めるように、涙が流れた。
『さようなら』
「     」

−終−

2008.7.8


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